1702年1月14日 48人目の赤穂浪士萱野三平切腹
カテゴリ: コラム / テーマ: 歴史 / ジャンル: 学問・文化・芸術
元禄15年1月14日(1702年2月10日)
48人目の赤穂浪士萱野三平切腹


今日は48人目の赤穂浪士・萱野三平の忌日。

師走といえば、と聞かれたら、何人が答えますかね、「忠臣蔵」って。
そう、師走の定番といえば、「赤穂浪士の討ち入り」。
通常"47人"の赤穂浪士ですが、知らざれる"48人目"、それが萱野三平です。
なぜ、彼は48人目に成りえなかったのでしょうか……。


萱野重実(通称:三平)は、1675年に摂津国萱野村(大阪府箕面市)に生まれました。
萱野家は源氏の子孫であり、鎌倉時代から戦国時代までの間、萱野村の地名を姓に、
「萱野氏」を名乗っていた"豪族"でした。
江戸時代になってから、美濃(岐阜県)の旗本だった、大島氏に遣える事になり、
三平もまた、大島氏の推挙により、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕える事に。
その時彼は、赤穂藩士となったわけです。

1701年、浅野内匠頭長矩は、吉良上総介義央を江戸城松の廊下で斬り付けました。
理由として、吉良に苛められていた浅野が遺恨を理由に斬ったとか、
または浅野が精神的におかしかったとか色々。
(吉良が浅野の袴の裾を踏んで、吉良が謝らなかったから斬った……と
聞いた事もあるような。でもそれじゃあ、大人気ないちっさな人、浅野内匠頭(笑))

三平は、通常8日近く掛かる、江戸−赤穂間を、僅か4日で走破。
途中、偶然にも母親の葬儀に出くわしますが、"御家の一大事"を理由に、
母に挨拶を、と引き止める父を振り切って、赤穂へ。
その後、大石内蔵助率いる、赤穂義士として義盟に加わります。

赤穂城の無血開城後、三平は故郷の萱野村に帰りますが、
父は三平にに赤穂藩士を止め、自らを浅野内匠頭に推挙してくれた大島氏に
仕えるよう勧めます。(大島氏は吉良氏と深い繋がりがあったそうです)
しかし、義盟に加わった三平はそれを受け入れる事ができません。

彼は苦しみました。
吉良を討てば親不孝になり、大島氏に仕えれば主君への忠義を果たせない。

そして、忠臣蔵が起こる11ヶ月前、1月14日、萱野三平重実は自ら命を絶ちました。
彼は大石内蔵助に遺書を残しました。
同士としてお役目を果たせなかった罪を詫び、尚且つ、47人の奮起を祈って。
享年29歳。


現在も、箕面市の西国街道沿いに、萱野三平の実家の長屋門跡が残り、
そこに俳人でもあった、萱野三平の句碑が立っています。

「晴れゆくや日頃心の花曇り」
Edit / 2009.01.14 / Comment: 0 / TrackBack: 0 / PageTop↑
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星雁

Author:星雁
「本能寺の変」が起こった
6月2日に生まれた歴史スキー。
基本、時代に関しては雑食。
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直江兼続本陣跡から長谷堂城跡を望む。
(山形県山形市)

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