【室町後期の「栗形」など出土 三重・多気北畠氏遺跡】
津市美杉町上多気、多気北畠氏遺跡から室町時代後期(16世紀中ごろ)のものとみられる刀装具「栗形(くりかた)」などが出土したと、同市教委が発表した。10日午後1時半から現地説明会が行われる。小雨決行。
現地の国史跡「多気北畠氏城館跡」は平成8年から調査が始まっており、今年度の第31次調査は、現在は水田となっている東側の325平方メートルが対象となった。
出土した栗形は金属製。栗形は刀の鞘(さや)に付けられ、「下げ緒」を通して、刀を体に固定する。旧家などで伝えられるなどして現存するが、出土例は珍しいという。
また、刀装具の鋳型、鋳造に使う容器「取瓶(とりべ)」、鍛冶の際に風を送る「ふいご」の破片が見つかり、周辺で刀装具が生産されていたことが分かるという。
このほか、土師器(はじき)の鍋や皿、陶器などの日用品が出土した。
(1月9日 産経新聞)
【福知山城に釣鐘門が完成 城下絵図参考に復元】
福知山市内記一丁目、福知山城(市郷土資料館)の天守閣東側に、かつてあったとされる城門が復元された。この城門は、福知山城主・松平忠房時代(在城期間1649−1669)の福知山城下絵図に見られる「釣鐘門」。城の往時の姿をしのぶ新たな見どころが増えた。
市が進めていた福知山城公園整備事業の一環。城下絵図にある姿や位置をもとに、昨年3月19日から復元工事を始め、昨年末までに完成した。門は常に開かれていて、来館者が門を見上げてはくぐっている。
復元された門は2階部分を持つ高さ7・3メートル、横4・1メートルの大きな建造物。施工した福知山木材(末広町)によると、柱の木材には保護剤の一種を塗り、防蟻(ぼうぎ)・防虫の効果だけでなく、こげ茶色にして古く見えるような工夫をしている。木材はヒバ、マツ、ヒノキを使用した。
(1月9日 両丹日日新聞)
【戦国時代の古河公方の墓荒らされる】
古河市鴻巣の古河総合公園内にある県指定文化財「古河公方足利義氏墓所」が壊されているのを散歩中の近所の人が見つけ、古河市役所を通じて5日、古河署に届け出た。
調べでは、壊されていたのは高さ約75センチの台座に乗せられていた石塔(直径15センチ、高さ40センチ)と円筒形の灯籠(直径40センチ、高さ165センチ)。石塔は手で引き倒したように台座の前に転がり、灯籠は基部から倒壊していた。
同署で器物損壊事件として捜査。異常が見つかったのは昨年12月29日午前8時半ごろで、前日の同時刻には異常がなかったという。
義氏は、室町時代後期から戦国時代にかけて下総国古河(現在の古河市)を本拠とした古河公方(関東足利氏)の5代目。天正15(1587)年に没したとされる。かつては埼玉県久喜市の香雲院に墓所が存在したが、現在は廃院となり、大正15年に同総合公園内に建碑、昭和8年に県指定文化財に指定された。
(1月6日 産経新聞)
【徳川秀忠から黒田官兵衛へ 姫路文学館で手紙公開】
関ケ原の戦いの前年、後の徳川二代将軍秀忠が、播磨出身の戦国武将、黒田官兵衛(如水)にあてた直筆の書状が十一日から姫路市山野井町の姫路文学館で初めて公開される。動乱を目前にした武将の様子をうかがう貴重な資料という。
書状は縦一七・五センチ、横七十三センチ。一五九九(慶長四)年、官兵衛から贈られた皮袴(ばかま)に対する礼状で、十月二十五日の日付や秀忠の花押がある。
当時、大阪か京都に滞在していた官兵衛の近況報告に対し、「上方之儀弥静謐ノ由大慶存候(上方は平穏とのこと、大いに喜ばしい)」などと動乱前の静けさを伝えている。その翌年、官兵衛は関ケ原の戦いで家康側についた。
同館の甲斐史子学芸員は「官兵衛は豊臣秀吉の軍師だったが、秀吉の没後、黒田家が徳川とつながりを深める様子がうかがえる」と話している。ほかに、秀忠が姫路城ゆかりの長女千姫に書き送ったとみられる書状(年代不明)なども併せ、公開する。三月三十一日まで。
(1月10日 神戸新聞)
【直江兼続ゆかりの「愛の旗」 佐久・近代美術館で展示】
戦国武将上杉氏に伝わるとされる「愛」と書かれたのぼり旗が佐久市立近代美術館で展示されている。「愛」の字は、今年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公で上杉景勝の家臣だった直江兼続(かねつぐ)にゆかりがあり、市教育委員会は「この機会に多くの人に見てもらいたい」としている。
旗は昨年2月、武具専門の佐藤博物館(中野市)の閉館に伴って市が譲り受けた約500点のうちの一つ。縦4・8メートル、幅約70センチ。草書体で「愛」と書かれている。「愛」は直江がかぶとの前立てなどに使っていた。「愛染(あいぜん)明王や愛宕権現から取った」「民衆への慈愛を示した」などと諸説あるという。
昨年4月、戦国期ののぼり旗に詳しい関根宗浩さん(54)=群馬県高崎市=が見立てをした。関根さんによると、旗は絹製で、直江が活躍した時代より新しい江戸時代前期に作られたとみられる。関根さんは「家訓を伝えるために作られ、実戦でなく馬術の練習などで使ったのではないか」と話している。
ほかに「刀八(とばつ)毘沙門」と書かれたのぼり旗など約80点を4月12日まで展示している。
(1月8日 信濃毎日新聞)
【最上義光、悪役やめて NHK「天地人」に山形やきもき】
4日、スタートするNHK大河ドラマ「天地人」で、山形城主・最上義光がどう描かれるか、関係者が注目している。NHKはまだ配役や役どころを公表していないが、過去の大河ドラマでは悪役だった。今回、どの場面がどのように描かれるかで観光面への効果も変わる。関係市町はNHKに「舞台に我が町を」「文化人としての義光も描いて」と要望を重ねている。
先月13日、今井義典NHK副会長や天地人チーフプロデューサー、県や市町担当者が集まり、山形市で懇談会を開いた。関係市町にとって、義光がどう描かれるかは重大な関心事。主人公は上杉藩の重臣、直江兼続で義光は敵役に違いないが、扱われ方で観光へ波及効果が期待できる。
関係市町の担当者はまず、最上軍と兼続率いる上杉軍が戦った慶長5(1600)年の慶長出羽合戦をドラマで取り上げるよう要望。その上で山形市は「長谷堂の戦い」、山辺町は「畑谷城の戦い」、上山市は「上山口の戦い」と慶長出羽合戦の中でもそれぞれ地元の戦いを盛り込んでほしいと求めた。最上軍の激しい追撃を受けながら、鉄砲隊の活躍で撤退戦をしのぎきった上杉軍と兼続の武勇を伝える長谷堂の戦いを取り上げ、義光も登場させる意向をNHKが明らかにした。
関係市町には、もう一つ心配がある。87年の「独眼竜政宗」で義光は、主人公、伊達政宗を権謀術数で追いつめる役で有名になり、悪役としてのイメージが広まった。平均視聴率は39.7%と歴代大河ドラマ1位を記録した作品だけに、影響は大きかった。
山形市の昨年12月議会でも市議が、家督争いや謀略で敵を陥れる義光を描いた市史を見直すよう提案した。市川昭男市長は「市史は戦国武将の一面を取り上げた」と答えたが、見直しには言及せず「文化人の一面を新たに発信したい」と述べるにとどまった。
山形市の最上義光歴史館によると、一流の文化人が名を連ねた連歌「何路連歌百韻」で義光は地方大名で唯一、登場するなど地元で「文化人」として再評価する声が高まっているという。県や市町はNHKに「文化人」義光の資料を渡しつつ、県内でイベントを開くなどイメージアップに努めている。
(1月4日 朝日新聞)
【甲府城下町で金付着土器32点発見】
甲府市は、戦国時代の武田氏館周辺の甲府城下町遺跡(甲府市北口)から、金が付着した土器片32点が見つかったと発表した。土器を使って金を溶かし、加工する際に付着したとみられ、戦国最強といわれた武田氏の資金源を探る上でも貴重な資料という。
発掘調査に当たった帝京大山梨文化財研究所の萩原三雄所長は「戦国大名の金製品づくりは未解明な点も多く、手掛かりになる」と話した。
市によると、金が付着した戦国時代の土器の発見は石川県の七尾城下町に次いで全国2例目。今回の発見で、県内の複数の金山で発掘、精錬された金は甲府城下町に運ばれ、装飾品などの金製品に加工されていた可能性が高まったという。
(1月11日 産経新聞)
【水戸城「石垣ない」実証 茨城県教育財団】
茨城県教育財団は9日、水戸市三の丸の水府橋拡幅工事に伴う水戸城跡発掘調査の結果、堀ののり面が人工的な盛り土で補強されていたことが分かったと発表した。「石垣がない」とされてきた同城の実態が初めて考古学的に裏付けられた。
堀は深さ約4メートルで、のり面は約30度の勾配(こうばい)。黒粘土や砂などを交互に重ねた厚さ約2〜4メートルの盛り土で補強されていた。堀底には石や砂を混ぜた土が敷かれており、その上には厚さ50センチ以上の泥が堆積(たいせき)。空堀として作られたが、排水管理が難しく、のちに水堀になったと考えられる。
のり面工事が施された堀は全国的にも珍しく、16世紀末〜17世紀前半の佐竹氏か徳川氏の時代に作られたとみられる。同財団は「崩れやすい土壌で補強工事が必要だったのでは」としている。当時は堀全体の高さは約25メートル以上あり、草などで覆われていたという。
同調査では、二の丸の北西部分の堀の角も初めて発見。「水戸城の旧景観を知るうえでも重要な成果」としている。
(1月10日 産経新聞)
【高崎城本丸に素掘りの堀】
昨年8月から行われている高崎市高松町の高崎城遺跡発掘調査で、本丸を囲む堀(本丸堀)が初めて発見され、高崎市教委は12日、市民らを対象に現地説明会を開いた。
19回目となる今回の調査では、本丸跡の北東部に幅約24メートル、深さ約8メートルの巨大な素掘りの本丸堀=写真=が見つかり、堀内からは、同城最後の城主である松平(大河内)家の家紋が彫られた鬼瓦が、ほぼ完全な形で発掘された。
本丸の南北では、中世に作られた溝状遺構が見つかり、素焼きの土器などが出土。高崎城の築城以前にあった和田城の遺構の可能性もあるという。また、井戸やレンガ積みの水路なども発見された。
説明会には約400人が参加。3人の説明員が各遺跡を案内し、参加者は配布された地図を広げて熱心に説明を聞いていた。夫と訪れた高崎市貝沢町の竜美みゆきさん(46)は「堀の深さにびっくり。遺跡や出土品を生で見て、高崎の歴史の深さを感じた」と話していた。
高崎城は1598(慶長3)年、落城した和田城を拡張して築かれ、歴代高崎藩主の居城となったが、明治維新で廃城。その後、陸軍歩兵第15連隊が置かれ、堀の多くは埋め立てられた。
(1月13日 読売新聞)