関東地方に行くのは、中学の修学旅行以来の事。
その時は行き先が東京だった為、神奈川の印象は薄い。
歴史も殆ど分からない頃の事で、小田原城の北条氏も、鎌倉幕府も、
全く意識してなかったような気がする……。
今回の旅は、運命の人との出会いによって、生まれたものです。
この人と出会わなかったら、鎌倉旅はもっと遠かったに違いない。
年寄りになった頃に行ったかもしれない(笑)
(そもそもばーさんになってからそれ程動けるのやら……)
そんな運命に導かれた、鎌倉・小田原旅。
一泊二日の強行軍、観光地はあまり巡れてません。
(きっとこれもまた、また来いよってことなんだろうなぁ……)

【一日目】
東慶寺→円覚寺→鶴岡八幡宮→江の島
【二日目】
万騎が原古戦場跡(畠山重忠公遺烈碑)→北条氏政・氏輝公墓→小田原城
2007年10月25日、朝3時30分時起床。
始発の新幹線に乗るための早起きです、新幹線の時間は6時18分。
しかしここは淡路島。まず海を越える事から始まります(笑)
朝4時に家を出て、まずは淡路島の最北端の岩屋に40分かけて走り、
それから5時発のフェリーに乗り込んで明石へ。
明石港から、JR明石駅へ行き、新幹線が停まる西明石駅へ行きます。
まあ、駅で5分ほど迷子になりましたが(笑)
何とか無事、6時18分の始発・東京行きに乗り込む事ができました。
やはり始発、誰も居ない。
なんとなく貸切みたいな気分を味わいながら……
DS西村京太郎サスペンス 新探偵シリーズ
京都・熱海・絶海の孤島 殺意の罠……を、新横浜駅まで、延々と遊び続けるのです(笑)
静岡県辺りまで来た頃でしょうか。
そこで、人生生まれて初めて、富士山を目の当たりにしました。
前に東京に行った時には見なかったのかって?
当時は天気が悪く、富士山は真っ白な雲にすっぽりと埋もれて
見えなかったんです。
大体、箱根すら微妙だから、見えるわけがないじゃないか……!!
とりあえず撮ってみたはいいけれど、
これが富士山じゃなかったらどうしよう。

静岡あたりで小学生の修学旅行グループと鉢合わせてしまいまして。
静かだった車内が、おしゃべりで一杯になってしまいました(笑)
標準語ばかりの車内が、関東地方に近づいている事を感じさせます。
子供たちにしたら、富士山は全く珍しいものでもないらしい(笑)
「富士山だー!」ってはしゃぐ子は誰一人いなかった(笑)
箱根に到る頃、頭の中では滝廉太郎の箱根八里が歌われ始める。
氷○きよしの「箱根八里の半次郎」じゃないところが、
微妙なオッサンくささを感じさせます(笑)
新横浜駅に到着。運命の人との顔合わせです。どきどきしてきました。
顔も声も全く知らない相手です。
メールで多少のやり取りをした程度です。
出会い系が危険だと囁かれる今日この頃ですが(笑)
しかし、二人は眼と眼が合った瞬間、お互いだと分かったらしい。
私に勇気を出してメールしてくださったありがたーい人なのだ。
同じ趣味を持つ人など、ましてや同い年で女の子で居るわけがないと
思っていたけど、日本は広い。結構居るもんなんだ。
(方向は多少違えど、史跡巡りをする女性が増えてるそうですね)
初めまして、と挨拶をし合って、早速「いざ鎌倉」。
新横浜駅からレンタカーを借りて、鎌倉へ。
ぶっちゃけ、レンタカーは失敗でした。電車を使うべきでした。
最初は建長寺を目指していたのですが、思わぬ伏兵・東慶寺。
【東慶寺】
北条時宗の夫人、覚山尼が北条貞時を開基として立てた寺です。
「かけこみ寺」「縁切寺」といわれた、男子禁制の寺法のもとに、
多くの女性を救った尼寺でした。
しかし明治35年(1902年)から男僧寺となっています。
美しい聖観音(重文財)、水月観音(県重文財)があります。
縁切寺として有名なこのお寺。
現在は女性からも"離婚請求"が当たり前にできる時代。
江戸時代はそうではなかったわけです。夫側にしか離婚請求権がなくて。
(本当に江戸時代って女性の立場低いですねぇ……)
しかし幕府公認の縁切寺で、三年修行すれば離婚が認められるという
「縁切寺法」がありここを目指してやってくる女性は多かったそうです。
とはいえ、離婚したいから!っていうだけで簡単に寺に入る事はできず、
寺が夫婦両方の言い分を聞き、夫が離縁状を書く事を同意すれば、
三年修行せずとも即離婚ができたというわけです。
つまり、夫婦の言い分を聞いても夫が納得しなかった場合とかに
縁切り法が使われるのかな。
復縁した夫婦も居たそうですけど(笑)
このお寺に立ち寄ったからには、ちゃんとした理由があるからこそ。
豊臣秀頼の娘、天秀尼(奈阿姫)が入山したお寺です。
二十代目の住職も務めました。
そして「縁切法」を確立したのは、この天秀尼だったりもします。
さて、縁切法の確立には、会津加藤家のお家騒動が関わっています。
加藤家は、淡路志知城を経て、伊予松山城、会津若松城を治めた家。
初代藩祖・加藤嘉明は賤ヶ岳七本槍の一人で、伊予松山城を築城した人。
1627年に会津蒲生家と所領を交換という形になり、会津に移封。
二代目の明成はその人間性が災いして、家臣たちと対立していたとか。
事件は、その二代目の時。
明成と家老の堀主水が仲違いし、主水は明成に殺されてしまいます。
主水の妻子は東慶寺に駆け込んで、天秀尼の保護を受けました。
明成は、天秀尼に主水の妻子を引き渡すように、と要求します。
しかし、天秀尼はこの寺が男子禁制であること、
また女性を保護する寺である事を盾に、明成の要求を断固拒否、
そして幕府に訴えました。
その結果、会津加藤家は改易。
しかし、明成の息子・明友が加藤家を継ぎ、
近江水口二万石で幕末まで続いたとのこと。
その後の会津藩はご存知の通り、徳川家光の異母弟の保科正之が入り、
幕末まで松平家として続いています。

あの門が入り口。
静かなお寺でした。
結構他の観光客の方も多かったです。

相方と秀頼の娘の事を語りつつ、彼女の墓を探しましたが、
結局どれが天秀尼の墓なのかが分からなかったです……リベンジかな。

その代わりに、北条時宗夫人・覚山尼のお墓。
何故洞窟っぽい奥にあるのか、と思ったのですが、
これは鎌倉時代独特の埋葬法で、この洞窟っぽいのを"やぐら"といって、
鎌倉は土地が狭いということもあり、
岩を削って葬ったのだとか。これも幕府の命令で。
上手な土地活用術ってか。
今でさえむき出しですが、鎌倉時代はここに扉が付いていたそうです。
墓荒らし対策ですかね……。
ちなみに、天秀尼の墓はこの東慶寺の中で最も大きな墓なんですって。
"やぐら"に至る前に並んだ墓の中にあったみたい。
見た憶えはあるんだけど、天秀尼の墓とは書いてなかったのでスルー。

東慶寺本堂。本尊は釈迦如来像。
ここで、初めて気が付いた。

戦国時代の北条氏もお馴染みの、三つ鱗。
この家紋は戦国時代の北条氏のものかと思っていましたが、
鎌倉時代の北条氏も、この家紋を使ってたんですねえ。
そして私はこの時から、この三つ鱗と遭遇しまくる事に……!