【江戸後期の園部商家「田原屋」姿消す 市街地活性化事業に伴い】
京都府南丹市園部町中心部の本町商店街にある旧山陰街道沿いの町家で、江戸時代後期の建築とされる雑貨店「田原屋」がこのほど解体された。市が進める中心市街地活性化事業に伴い、移転することになったため。事業の進ちょくや商店の後継者不足とともに園部旧城下町をしのばせる建物が消えつつある中、園部商家を代表する建物がまた一つ姿を消した。
田原屋は、鬼瓦銘から天明6(1786)年の建築と推定され、園部旧城下町で最古級の町家。旧山陰街道の本町通に面し、古式の町家の特徴である妻入形式。主屋の2階正面にあるしっくい仕上げのむしこ窓など江戸期の様式をよく残し、裏手に蔵と離れ座敷がある構造になっていた。
約40年前に家業を継ぎ、田原屋に住んで雑貨店を営んできた吉田哲さん(68によると、吉田家が園部に移る前に住んでいた日吉町の旧田原村の名を取って「田原屋」を屋号にし、建築当初から質屋や薬屋などを営んできた。遅くとも祖父の代に雑貨商になっていた、という。
市街地活性化事業で本町通を拡幅するのに伴い、南側に移転することになった。吉田さんの長男哲也さん(37)が、建物を譲渡する形で保存してくれる個人や企業を探したが、移築費用が高額なことを理由に断られて取り壊すことになった。
夏に蔵と離れ座敷は解体されており、主屋の取り壊しが1日に始まって、12日に完了した。貴重な町家を少しでも保存しようと、市立文化博物館の学芸員が町家から建物や家具の一部を搬出。同じく市街地活性化事業に伴い取り壊された後、博物館が一部を保存、展示している銭湯「旭湯」の横で、田原屋の正面部分を展示する。
吉田さんは「時代の流れでやむを得ないと感じている。少しでも建物が残るのはうれしく思うが、私の代でつぶしてしまった寂しい気持ちもある」と話す。
(11月14日 京都新聞)
【氏郷まつり:にぎやかに 戦国絵巻、武者行列 松阪で12万5000人】
松阪開府の祖である戦国武将、蒲生氏郷をしのぶ「第47回氏郷まつり」が松阪市の市街地一帯でにぎやかに行われた。約12万5000人(同市観光協会発表)が繰り出し、伝統の秋祭りを楽しんだ。
呼び物の武者行列は正午に同市役所前を出発。氏郷役の矢野隆嗣・松阪中央総合病院外科部長と、奥方冬姫役の看護助手、中島三千代さんを中央に、武者隊など総勢160人が約4キロを2時間がかりで行進した。
また、松阪しょんがい音頭とおどり保存会や松阪しょんがいソーラン、松阪サンバチームらが踊りながらにぎやかにパレードした。
このほか、氏郷ゆかりの滋賀県日野町から鉄砲隊や手作り甲冑(かっちゅう)隊も参加、彩りをそえた。
(11月13日 毎日.jp)
【庭園、江戸時代に造営か 京都・宇治の太閤堤】
京都府宇治市の宇治川右岸に16世紀末、豊臣秀吉が前田利家らに造らせた「太閤堤」の一部から出土した庭園跡で、元禄期(1688−1704年)のものとみられる人工の池跡が、13日までに見つかった。
宇治市歴史資料館が今年8月に明らかにした調査結果では、庭園跡から直径1・9メートルの池や小石を敷き詰めた州浜、炉などが出土。秀吉が庭園で趣味の茶の湯を楽しんだと推測していた。しかし、この庭園は秀吉没後の江戸時代に造られた可能性が高まった。
同資料館によると、人工の池跡は、南北約8メートル、東西約6メートル。底に埋め立てられていた瓦の文様が元禄期のものであることから、築造も同時期とみられる。
また、庭園跡は、建設時から太閤堤と途切れた状態だったことも判明。同資料館はこの場所について「当初から(太閤堤とは別の)何らかの重要な施設があったと考えられる」としている。
(11月13日 共同通信)
【忍城時代まつりで戦国の攻防戦再現 行田】
人気時代小説「のぼうの城」(和田竜著)の舞台として脚光を浴びている行田市の忍城址周辺で九日、恒例の忍城時代まつりが開かれた。行田商工会議所の主催。忍城が「忍の浮き城」と呼ばれる由縁となった成田軍と石田軍の攻防戦を再現し、甲冑(かっちゅう)姿の戦国武将が雄々しく集う歴史絵巻が繰り広げられた。
成田勢を率いる成田長親役に工藤正司行田市長、城主氏長の娘・甲斐姫役には、ものつくり大学の学生清水慶子さん、対する石田軍の石田光成役に鈴木秀憲行田商議所会頭らが扮した。
わずか二千の兵で石田軍二万の攻撃を退け、水攻めの奇策にも耐え抜いた名城・忍城。武将たちが戦略を講ずる場面では、小説「のぼうの城」のセリフがふんだんに盛り込まれるなど、臨場感あふれる物語が展開し、多くの見物客を魅了した。
(11月10日 Web埼玉)
【戦国時代に思いはせ 島田・諏訪原城跡で散策イベント】
島田市牧之原の国指定史跡「諏訪原城跡」を、城郭専門家によるガイドを聞きながら散策するイベント「諏訪原城の楽しい歩き方」が25日開かれた。参加者は発掘調査が進む現地を歩きながら、戦国時代へ思いをはせていた。
諏訪原城は1573(天正元)年、武田信玄の子・勝頼が、家臣の馬場美濃守信房に命じて築いた山城。城内に諏訪大明神をまつったため、その名が付いたとされる。2年後に徳川家康に攻め落とされ、牧野城と改名し家臣が城主を務めた。1975(昭和50)年に同史跡となり、2004(平成16)年度から発掘調査している。今夏には16世紀の中国製のお碗(わん)や小さな杯が出土した。
イベントには、遠く埼玉県所沢市など県内外から午前、午後の2回で計約100人が参加。城郭整備に詳しい磐田市立第一中学校教諭で、諏訪原城跡整備委員の加藤理文さんが、現地を案内した。
城周辺に張り巡らされた堀について、加藤さんは「水がある堀は飛び込んだり、水中に隠れたりできるが、ここは深い空堀でできない。堀を抜ける通路を狭くL字形に造り、侵入した敵を横から攻撃できる構図になっている」などと解説していた。
島田市金谷の無職増田宜士さん(72)は「歴史が好きで来た。遠州を攻めようとした武田の思いが伝わり、面白い」と話していた。
(10月26日 中日新聞)