旗振山を鉄拐山に向かって歩きます。
鉢伏山のカーレータの管理をしているおばさんに、この付近の地図を
頂いたのですが、ちょっとした案内のみで「鵯越の逆落とし」の現場が
どうとは書いてませんでした。
まあ、迷う事はあるまい、と鉄拐山の方向に進路を取って歩き出します。
すると。
偶然というのか、奇跡とでも言えばいいのか。

なんと、木に引っかかってるじゃないですか!(笑)
【須磨一ノ谷(坂落とし)】源義経の奇襲攻撃「一ノ谷・坂落とし」は、須磨浦公園の北に聳える
鉢伏山と、鉄拐山との間、眼下に海を見下ろす東側の急斜面で
行われました。寿永三年二月七日早朝、鹿しか通らぬ急坂を、
義経は弁慶をはじめとする七十余騎の騎馬軍団を率いて、
麓の一ノ谷城へと攻め降り、源平合戦は一方的な源氏軍の勝利で
決着しました。ここから「安徳帝内裏跡」へ辿る道が、
その進軍路と謂われています。
他に、鵯越付近(長田・兵庫区北方)との説もあります。
(案内板より)

鬱蒼としています……(笑)ここから、麓まで降りられるようです。
では、義経の逆落としならぬ、星雁の逆落としでも……

一応、ちゃんとハイキングコースですから、階段が設けられております。
それにしても急な坂道です、義経の逆落としに比べれば楽でしょうけど、
既に膝が笑い始めています(笑)

ほんの少し開けたところから見た、山の斜面。
今はこうやって整備されていますが、実際は道なき道なんですよね。
容易じゃなかったでしょう、絵とかでみると、何も生えてない崖から
降りてる姿が多いんですけどね。これだけ鬱蒼とした山の中だったら、
道なんてないだろうに。
それとも、当時ははげ山だったとか?それもまた変な話……。
千年近く経ってから、山が緑を取り戻したというのなら、
今のこの時代に是非見習いたい事象であることは明らかですな(笑)
……というのも、この古戦場の位置が誤りである、と言われてます。
現在この義経の逆落としの現場について、論争をやってます。
そのことに関しては、詳しくまた述べたいと思います。
とにかく、ここは逆落としにしては、森がありすぎるな、
というのが私の見解です。
山を下る途中で、「寄手塚・身方塚」の案内板がありました。
「寄手塚・身方塚」は、大阪府河内郡千早赤阪村にもあります。
両軍の供養塚のことで、楠木正成が、鎌倉軍と一戦交えた際、
敵味方区別なく平等に弔おうという事で、建てたのが最初。
そして、寄手(敵)の塚の方が、身方(味方)より大きく作る事で、
相手に対する敬意が伺えます。
……楠木正成のこういう、公平な暖かさが好きなんだ、私は。
その正成の伝承に習って、戦後に源平合戦で命を落とした人々の塚。
その塚が、この斜面の付近にあったらしいのですが、
草がぼうぼうで五輪塔どころか何もありませんでした。
当時はここに何があった、という図面が立っていて、
なんと、塚の間に何故か「和宮像」が一緒に立っていたそうです。
(現在はありません)
ここで「楠木正成」の名前を伺えた事が、単純に嬉しくて
(好きなんです、楠公さん)
ウキウキと山を下ったのでした。膝は大爆笑中です。
しかし、逆落としを終えると、なんと住宅街(笑)
なにやら源平絵巻の気分が一気に冷めてしまった……(笑)

これが、先の案内板にあった、「安徳帝内裏跡」。
立派な神社にでもなってるのかと思いきや、普通の公園でした。

うーん、フェニックスがミスマッチ……(笑)
【安徳宮】源平の戦で源氏に追われられた安徳帝は、平家一門に奉じられて
西走の途中、一ノ谷に内裏を置かれたと伝えられている。
この地に安徳帝のご冥福を祈る為に、祭られたのが安徳宮である。
安徳帝は寿永四年(1185)、下関壇ノ浦の戦にて、祖母二位の尼
(平清盛の妻・建礼門院の母)に抱かれ、八歳で海中に身を投じられた。
(案内板より)
そして、公園内をウロウロしていると……
なんと。
これは。

和宮像……!
「寄手塚・身方塚」のところにひっそり立っていたという和宮像です。
【須磨一ノ谷・皇女和宮像】 この像は、ここより山上、300mの山の中にある、「寄手塚・身方塚」の側に
人知れず寂しくあられたのを、平成12年(2000年)にここにお移しした。
なぜこの像が山中にあったのかは不明である。
和宮様は、仁孝天皇の第八皇女で六歳にして有栖川熾仁親王と婚約され、
睦まじく育たれた。しかし、幕末に朝廷と幕府の関係を改善し、
国論を統一せしめるため、幕府の強い要請で和宮様は有栖川熾仁親王との
婚約を破棄し、十七歳で徳川幕府の十四代将軍家茂に嫁がれた。
惜しましな 国と民との 為ならば
身は武蔵野の露と消ゆとも
その後、有栖川熾仁親王総指揮の官軍が、
江戸幕府へ総攻撃をかけようとしたが、和宮様は嘆願し、
江戸の町を戦火から救われた。
昭和三年に神戸市各小学校に二宮尊徳像を寄贈した中村直吉氏は、
外遊で西欧の女性たちの質素で勤勉な姿にふれ、日本女性の伝統ある
美徳保持をいつまでも願い、昭和九年に県一(神戸高校)、
県二(夢野台高校)、市二(須磨高校)の三女学校に和宮像を寄贈した。
この像は戦争中の金属供出から免れたその内の一体だと思われる。
他の像と比べ憂いを含んだ物悲しい少女の雰囲気が表れている。
この度、多くの方々のお力添えで、ここ安徳花壇の側に和宮様を
お迎えする事ができたのは非常に喜ばしい限りであります。
(案内板より)
【一ノ谷と戦の濱】 「一ノ谷」は、鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流に沿う地域で、
この公園の東の境界に当たる。
1184年(寿永3年)2月7日、の源平の戦いでは、
平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると
二つに分かれ、東の一ノ谷、本流にたいして、西の谷を赤旗の谷と呼び、
平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられている。
一ノ谷から西一帯の海岸は、「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の
夜明けには、松風と波音の中に軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、
ここが源平の戦の中でも特筆される激戦の地であったことが偲ばれる。
(案内板より)
今、山を降りて駆け降りたわけですが、まさにこの濱についた瞬間、勝敗が決したような
そんな気分になりました。なぜならこれから訪れる史跡は、なぜかどれも
平氏が捕らわれ、逃げ惑う史跡ばかりなのですから。