「山中鹿介、430年ぶり夫婦再会 妻・千明の位牌安置」
(2008/07/15 日本海新聞)
「われに七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという戦国武将・山中鹿介(一五四五−七八年)の四百三十回忌「幸盛忌が、鳥取市鹿野町鹿野の幸盛寺(池田正顕住職)で十七日に営まれる。妻の位牌が鹿介の位牌の隣に安置され、夫と妻が四百三十年ぶりに“感激の再会”を果たす。鹿介の故郷・安来市広瀬町から尼子氏の軍勢にふんした武者行列が参加し、二人の霊を慰める。
幸盛忌に参列する尼子軍の武者行列
山中鹿介(実名は幸盛。鹿介は通称)は戦国大名・尼子氏の家臣。月山富田(がっさんとだ)城(広瀬町)を拠点とした尼子氏が滅んだ後、尼子氏再興のために出雲や因幡などを転戦するが果たせず、阿井の渡し(岡山県高梁市)で殺された。
幸盛寺は、鹿野城主・亀井茲矩(これのり)が、しゅうとに当たる鹿介の菩提(ぼだい)を弔うために建てた寺で、鹿介の墓や位牌、直筆の書、使用の槍(やり)がある。
幸盛忌は鹿介の命日にあたる十七日に営む。午前九時半から、「NHK大河ドラマ『山中鹿介』を放映実現する安来市議会議員連盟」のメンバーや有志二十人がよろい、かぶとに身を固め、鹿野町の「夢本陣」から幸盛寺まで武者行列。併せて同町内の有志が虚無僧行脚する。
午前十時から幸盛寺で法要を執り行う。鹿介の妻・千明(ちあき)の位牌は、鹿介の生き方に感動した琴浦町の男性が作成。本堂で開眼法要をして鹿介の位牌の横に安置し、四百三十年ぶりの再会が実現する。
千明は鹿介の死後、茲矩の下に身を寄せ鹿野城で暮らしていたが、一六一七年に亀井氏が鹿野から津和野(島根県)に転封したのに伴って津和野に行き、一六四三年に死去した。
鹿介と千明の孫は、江戸時代の豪商・鴻池家の祖となった。
池田住職は「これで鹿介夫妻そろって供養できる。これを機に鹿介の故郷・安来市との交流を深めたい」と話している。
「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉で有名な、山中鹿介(幸盛)。
月山富田城跡には、月に向かって手を合わせて祈る鹿介の銅像があります。
1545年、尼子氏家臣・山中満盛の次男に生まれた鹿介は、病弱を理由に、
出家した兄に代わって、山中家を継ぎます。
鹿介が生きていた時代、中国地方は毛利氏と尼子氏が覇権を争っていました。
既に大内氏は、1555年に厳島の戦いで毛利氏に敗れ、滅亡しておりました。
尼子氏は当主の急死などに見舞われ、1566年、月山富田城は落城、降伏します。
ここに、戦国大名・尼子氏は滅亡することになりました。
しかし、尼子氏の遺臣である、山中鹿介は浪人の身になりながらも、
織田信長の支援を受けながら、尼子氏の再興を目指して、毛利氏と戦います。
(一時は明智光秀の軍勢の一人として、松永久秀の信貴山城攻めに加わったとか)
その後、秀吉軍に加わり、尼子勢は上月城で毛利氏と対陣することに。
しかし、毛利勢に城を包囲され、羽柴秀吉の助けを待ちますが、
播磨・三木城主別所氏の離反により、上月城は孤立。
秀吉は尼子勢を見捨ててしまいます。これにより、当主勝久は自刃、
鹿介は捕えられ、毛利輝元の元へと護送されます。
しかし、鹿介を危険視した者たちの手により、阿井の渡し(岡山県高梁市)で
殺されてしまいます。
今回の記事にある、妻・千明との間に生まれた嫡男・幸元は、武士の身分を捨て、
摂津伊丹で酒造業を営み、成功させ、鴻池財閥の礎を築き上げました。
鴻池財閥といえば、まだ浪士組だった頃の新撰組が、芹沢鴨を筆頭に、
金をせしめられていたりもしましたが、全般的に鴻池氏は新撰組に支援を
送り続けていたみたいですね。
函館戦争の際でも、土方歳三に軍資金を用立ててもらっていたりね。
時代は変わっても、どこかに鹿介の意思が受け継がれているように感じます。
千明の位牌は作られたものだったのですね、昔からあるんじゃなくて(笑)
彼女の本物の位牌があればよかったかもしれないけれど、それでもどうか、
あの世で感動的な再会?できてればいいですね。
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(2008/07/15 日本海新聞)
「われに七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという戦国武将・山中鹿介(一五四五−七八年)の四百三十回忌「幸盛忌が、鳥取市鹿野町鹿野の幸盛寺(池田正顕住職)で十七日に営まれる。妻の位牌が鹿介の位牌の隣に安置され、夫と妻が四百三十年ぶりに“感激の再会”を果たす。鹿介の故郷・安来市広瀬町から尼子氏の軍勢にふんした武者行列が参加し、二人の霊を慰める。
幸盛忌に参列する尼子軍の武者行列
山中鹿介(実名は幸盛。鹿介は通称)は戦国大名・尼子氏の家臣。月山富田(がっさんとだ)城(広瀬町)を拠点とした尼子氏が滅んだ後、尼子氏再興のために出雲や因幡などを転戦するが果たせず、阿井の渡し(岡山県高梁市)で殺された。
幸盛寺は、鹿野城主・亀井茲矩(これのり)が、しゅうとに当たる鹿介の菩提(ぼだい)を弔うために建てた寺で、鹿介の墓や位牌、直筆の書、使用の槍(やり)がある。
幸盛忌は鹿介の命日にあたる十七日に営む。午前九時半から、「NHK大河ドラマ『山中鹿介』を放映実現する安来市議会議員連盟」のメンバーや有志二十人がよろい、かぶとに身を固め、鹿野町の「夢本陣」から幸盛寺まで武者行列。併せて同町内の有志が虚無僧行脚する。
午前十時から幸盛寺で法要を執り行う。鹿介の妻・千明(ちあき)の位牌は、鹿介の生き方に感動した琴浦町の男性が作成。本堂で開眼法要をして鹿介の位牌の横に安置し、四百三十年ぶりの再会が実現する。
千明は鹿介の死後、茲矩の下に身を寄せ鹿野城で暮らしていたが、一六一七年に亀井氏が鹿野から津和野(島根県)に転封したのに伴って津和野に行き、一六四三年に死去した。
鹿介と千明の孫は、江戸時代の豪商・鴻池家の祖となった。
池田住職は「これで鹿介夫妻そろって供養できる。これを機に鹿介の故郷・安来市との交流を深めたい」と話している。
「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉で有名な、山中鹿介(幸盛)。
月山富田城跡には、月に向かって手を合わせて祈る鹿介の銅像があります。
1545年、尼子氏家臣・山中満盛の次男に生まれた鹿介は、病弱を理由に、
出家した兄に代わって、山中家を継ぎます。
鹿介が生きていた時代、中国地方は毛利氏と尼子氏が覇権を争っていました。
既に大内氏は、1555年に厳島の戦いで毛利氏に敗れ、滅亡しておりました。
尼子氏は当主の急死などに見舞われ、1566年、月山富田城は落城、降伏します。
ここに、戦国大名・尼子氏は滅亡することになりました。
しかし、尼子氏の遺臣である、山中鹿介は浪人の身になりながらも、
織田信長の支援を受けながら、尼子氏の再興を目指して、毛利氏と戦います。
(一時は明智光秀の軍勢の一人として、松永久秀の信貴山城攻めに加わったとか)
その後、秀吉軍に加わり、尼子勢は上月城で毛利氏と対陣することに。
しかし、毛利勢に城を包囲され、羽柴秀吉の助けを待ちますが、
播磨・三木城主別所氏の離反により、上月城は孤立。
秀吉は尼子勢を見捨ててしまいます。これにより、当主勝久は自刃、
鹿介は捕えられ、毛利輝元の元へと護送されます。
しかし、鹿介を危険視した者たちの手により、阿井の渡し(岡山県高梁市)で
殺されてしまいます。
今回の記事にある、妻・千明との間に生まれた嫡男・幸元は、武士の身分を捨て、
摂津伊丹で酒造業を営み、成功させ、鴻池財閥の礎を築き上げました。
鴻池財閥といえば、まだ浪士組だった頃の新撰組が、芹沢鴨を筆頭に、
金をせしめられていたりもしましたが、全般的に鴻池氏は新撰組に支援を
送り続けていたみたいですね。
函館戦争の際でも、土方歳三に軍資金を用立ててもらっていたりね。
時代は変わっても、どこかに鹿介の意思が受け継がれているように感じます。
千明の位牌は作られたものだったのですね、昔からあるんじゃなくて(笑)
彼女の本物の位牌があればよかったかもしれないけれど、それでもどうか、
あの世で感動的な再会?できてればいいですね。
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